Sunday, February 12, 2012

大学での学びを社会に開く ―英語動画紹介のWeb公開実践から―




以下の文章は、私が学内のとある報告書に書いたものです。このブログに関連するものですから、ここに掲載しておきます。

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大学での学びを社会に開く
―英語動画紹介のWeb公開実践から―

柳瀬陽介(英語文化教育学講座)


1 言語ゲームの中の理解

ケースメソッド授業の利点は、学生に積極的な発言を求めて、彼・彼女らの理解を公的(public)なものにできるということである。従来の講義中心の授業では、発話するのは教師ばかりで、学生は講義内容の理解を自らの心の内で私秘的(private)に形成するだけであった。学生が自分の理解を表出し、理解の妥当性を他者と共に人々の前で共に吟味する機会がほとんどなかった。したがって、理解表出のほぼ唯一の機会である学期末の試験では、その「理解」を、この条件下で最も妥当な形で ― つまりは、教師が講義で述べた通りの形で ― 忠実に再生することが学びの慣習とすらなっている。早い話が「丸暗記」を学びのほぼ唯一の形態としているのだ。ゆえに学んだ内容は応用が効かないし、すぐに忘れ去られてしまう。このような暗記型の学習が、複合的で多文化的な現代社会に通用しないのは言うまでもない。

ウィトゲンシュタインも『哲学的探究』で述べるように、理解は、それぞれの理解が生をもつそれぞれの言語ゲーム(生活様式)の中で、他者と共に歴史的に形成され確認され修正されてゆくものである(注1)。理解とは、複数の人々がそれを共有しようと言語ゲーム(生活様式)を共にしてきた過去に根ざすものであり、その理解への新参者(学習者)は、その過去の慣例 (Gebrauch)(注2)を尊重しつつも、自らの理解を自らの言動で示し、その共同体の他者と共に、その理解の未来を試行錯誤しながら実現してゆく。

この点からするなら、日本の大学生の学びも、期末試験用紙という閉ざされた媒体によって吟味されるだけでなく、ケース授業のように教室内という、閉ざされてはいるが、学習者個々の私秘的な心を超えた公的な空間で探究される必要がある。さらには、教室という空間も超えて学習者が自らの理解を公的に示すことも、積極的に試みられるべきであろう。本稿では、そのような試みの小さな一つとして、筆者の「英語動画紹介のWeb公開」実践をごく簡単に紹介する。

2 学びの空間は電子的に拡張される

筆者は「英語動画で高度な英語説明力をつけよう!」というブログを2011年4月5日に開設し、以来今日(2012/02/13)に至るまでで約180本の英語動画の紹介をしている(注3)。紹介といっても、これは筆者ではなく学生によるものであり、学生は自らが興味をもち、かつ英語学習の点でも有用と感じた英語動画(多くはTED(注4)からのもの)を日本語で紹介している。紹介項目は、必須項目が「動画のタイトル」、「動画のURL」、「動画の内容紹介・解説」、「動画の中での印象的な英語表現」、「紹介者の名前(ニックネームか実名)」であり、任意項目として「紹介者のTwitterアカウント」、「紹介者のブログなどのURL」が設けられてある。

学生としてはたとえ匿名だとしても自分の紹介文が、広く公開されるのでそれなりに気を使って紹介文を書こうとするし、学生同士でもお互いの紹介文に刺激を受けていることはしばしば筆者も耳にしている。この学生の紹介文は、主に授業用のWebCTシステムによって提出させ、筆者がまとめてブログに掲載している。掲載と同時にその知らせをツイッターでも流すが、流す度に何人かの方はそのツイートを「お気に入り」にしたり「リツイート」したりして、この情報を活用してくださっている。

このような広がりは、紹介文を書く学生にとっても、紹介文を読むブログの一般読者にとっても有益な、いわゆるWin-Winの体制になっているのではないかと自負している。この英語動画紹介は、以前は授業受講者だけが参照できるWebCTシステムで行なっていたが、これを広くブログで一般公開したのは成功だったのではないかと考えている。


3 HTMLの簡単な学習の効果

しかしこのブログ公開も、当初は筆者にとって大きな負担であった。WebCTシステムなら、学生が投稿した紹介をそのまま他の学生も閲覧できるが、ブログ公開するためには、筆者がいちいち紹介された英語動画のリンクや埋め込みのHTMLを設定しなければならなかったからである。HTML設定といっても簡単なもので、たかだか一つの紹介に数分かかるだけであるが、一度に20-30本紹介するとなると、その時間負担は結構なものになる。忙しい時など、学生の紹介をWebCTシステムに残したまま、ブログ公開できないままに終わってしまった。

このHTML設定の単純作業を、TA (Teaching Assistant)を新たに雇用して行わせることも一瞬考えたが、それよりも、Webの基本言語であるHTMLの初歩を学生に教えて、学生にHTML設定をテキストファイルでさせて、筆者は基本的にそのテキストファイルをブログにそのまま貼りつければいいだけの体制にした方が教育的にも、効率的にも良いことに気づいた。

そこで、HTMLに関する基本的解説をブログに掲載し(注5)、なおかつ、すぐにHTML設定ができるようなテンプレートも用意した(注6)。その結果、多くの学生は、筆者がコピーするだけでブログ公開できるHTML設定ができるようになった。一部の学生は、最初はHTMLという言葉を聞いただけで敬遠していたが、HTMLの基本解説をして恐怖心を取り除くことを試みたところ、きちんとHTML設定ができるようになった。

しかしごく少数の学生は、半年たってもHTML設定に慣れず、筆者がそのままコピーしただけではエラーになってしまうようなファイルしか提出できていない。筆者の立場からすれば、HTMLに関する基本的な解説を行い、かつそれを参照すれば必ずできるようなテンプレートも用意しているので、HTML設定に失敗するわけがないと思い込んでいるのだが、少数とはいえ、未だにHTML設定ができない学生がいるということは、まだどこかに落とし穴があるということである。現時点で考えていることは、そのような学生に手取り足取りでHTML設定をさせても、条件が少しでも変わればその学生はできなくなるであろうから、基本的な理解と「習うより慣れろ」式の実践の両方を重視する方法が好ましいのではないかということである。これは今後の課題の一つとして考え続けたい。

このように大学の学びを社会に開くためには、理解に関する教師の認識論の変容だけでなく、具体的で瑣末ともいえる技術的指導も重要であると筆者は考える。このことに限らず、教育学研究では、抽象性と具体性の両極を大切にしたい。

(注1)
(注2 )
ウィトゲンシュタイン『哲学的探究』43節の有名な箇所("Die Bedeutung eines Wortes ist sein Gebrauch in der Sprache.")に基づく表現。
(注3)
(注4)
(注5)
(注6)

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